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対談 ”想い”で繋げる地域の輪 第10回 前編

ボンズシップ清水社長の対談企画スタート!

 

この業界に携わり、ご活躍されている皆様の

“想い”をお届けすることで、関連機関との繋がりや、

より安心して暮らせる地域作りに寄与できれば幸いです。

 

第10回目は、

医療法人社団オリーブ理事長

清澄ケアクリニック院長 刀禰 智之様

にご協力を頂きました。

 

 

 

 

 

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2018年1月22日 医療法人社団オリーブ 清澄ケアクリニック設立

その後、医療法人社団オリーブ 清澄ケアクリニック墨田、

オリーブ訪問看護リハビリステーション、

オリーブ居宅介護支援事業所、

可能性支援型デイリハLABOオリーブを設立。

 

“自宅で自分らしく最後まで生きたい”という希望を叶えるため門戸を開き、

“自分らしく在宅で生活し最後は入院したい”などのすべてのニーズに答える

 

という理念の下、幅広い支援の提供で地域医療に貢献されています。

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対談の様子はこちらのブログで前編/後編に分けてお届けいたします。

 

この前編では刀禰先生が医師を志したきっかけや、在宅医療への想いを

ご紹介いたします。

 

※以下、対談内容の黒字は清水社長、青字は刀禰様といたします


 

よろしくお願いします。

それでは、月並みではありますが刀禰先生が医師を志したきっかけを教えてください。

 

僕は生まれつき病気を持っていて、高校生に受けた最後の手術までに

全部で7回か8回の全身麻酔の手術をしました。

小さい時から大学病院に月1回受診し、時には入院して手術をしていました。

ですので家族には誰も医療系がいませんでしたが自然と医療とは近いところにいて、

そこでなんとなくの医師のイメージを持つことが出来ました。

 

高校卒業後の進路は医学部へ行くか悩みましたが、まずは東大に入学しました。

そのすぐ夏の頃、祖父が病気で亡くなってしまって…

その祖父の闘病中、大変ショックを受けたのが、

ある程度分かるつもりでいた病気についての医師の説明が全くわからなかったことです。

今思えば色々な言語が混ざっていたのかなと思います。

当時は理解できなかったことが本当にショックで…

それから“もう自分が医者になるしかない!”と医師を志し、

翌年千葉大学の医学部に入学しました。

 

おじいさまがきっかけとなり医師を目指されたのですね。

 

そうですね。

病状の説明などが“わからない”という事は

自分の不利益にも繋がってしまいますし、

家族に医療系がいませんでしたから自分が勉強しようと思いました。

理解があれば治療などの次の展開も広がっていくので、

僕たちは患者さんにどれほど理解をしてもらえるかに

気を付けて説明していかないといけないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

実際に患者さんやご家族、連携する関係者への説明で難しいなと感じた事はありますか。

 

自分が発する言葉(単語や用語など)が患者さんやご家族に

伝わっていないことを察するのは非常に難しいと感じています。

なので初回には医師だけでなくソーシャルワーカーも同席するようにして、

もし僕が話している内容で難しい単語が出てきたり、

患者さんや家族さんが“?”となっているのをソーシャルワーカーさんが感じ取ったら

”これってこういうことですか?”というような合いの手を入れてもらうようにしています。

それは、今話した内容がうまく伝わっていないですよという1つのサインですので、

言い方を変えたり嚙み砕いて話をしたりして理解をしてもらえるようにしています。

そういった工夫で患者さんや家族さんが置いてけぼりにならないように気を付けています。

 

医師になられてから、この江東区でクリニックを経営していこうと思ったきっかけはなにかございますか?

 

まず初めは、耳鼻科医になろうと思っていました。

そこから何故在宅医になろうと思ったのかというところですが、

研修医1年目のころ乳癌骨転移の女性を担当することがありました。

ベッドに手をついただけで骨転移の部分の骨が折れてしまって、

強い痛みを訴えていました。

痛み止めの薬を使いましたが痛みが治まらず、

その薬をまた使うにも習った知識では次の使用までに4-6時間開けなくてはいけない。

でも痛がっている…周りには“どうするの?”という空気が流れていました。

そこで何もできなかったという思いから、

ダイレクトに痛みや苦しさを取るというところに関心を持ち

麻酔科やペインクリニック、緩和ケアの分野に行こうと思っていました。

ですので研修医が終わってからは麻酔科に入ることが決まっていたのですが、

先程話した祖父の奥さん、つまり僕の祖母が研修医2年目の3月に亡くなりまして。

その祖母は肺炎で在宅酸素を入れながらも絶対家で死にたいという希望がありましたが

最期は苦しくて苦しくてICUに運ばれ願いが叶わず病院で亡くなりました。

絶対家で死にたいと言っていた祖母が

ICUで亡くなるというのは一番ギャップが大きいと思いませんか?

そのとき“今の僕だったらどう最後を過ごさせてあげるかな”と

考えているうちに在宅医になろうと強く決意しました。

 

時代背景も色々ありますが自宅で亡くなりたいという方は多いですよね。

先生は20代のうちに在宅医になられたということでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

そうですね、もう麻酔科に行くことは決まっていましたし、

緩和的な知識は絶対必要だと思っていましたので

26歳くらいの時に麻酔科に行きました。

その後29歳から30歳ころに緩和ケア病棟へ行きながら在宅を始めました。

なので今はもう14年目くらいです。

 

その頃から在宅医をやっていらっしゃったのですね。

元々は神奈川ご出身とのことですが、

どのようなご縁があってこの地で在宅医療をしようと決めましたか?

 

開業するにあたり2年間修業させて頂いた先生が葛飾区だったので、

墨田区を緩衝地帯として、競合せずに協力できるエリアとして

この場所を選びました。

あとは今住んでいるところから夜間など何かあった時に

自分が駆けつけることのできる範囲にしたかったというのもあります。

 


 

お話の途中ですが前編は以上となります。

後編では刀禰先生の在宅医療に対する価値観や

スタッフの皆さんへの想いを紹介致します。

 

次回は5月第2週頃に掲載予定です。

お楽しみに!

株式会社 ボンズシップ | 2025.04.17 10:40